
山口県は早くから大陸文化の影響を受け、土井ヶ浜遺跡などの弥生遺跡が多数残っています。
平家の最期(源平合戦)の時を見つめ、室町時代には大内文化が花開き西の京と謳われます。
関ヶ原の合戦後は毛利氏の唯一の所領となり、明治維新の原動力を生み出していきます。
歴史と文化が色濃く残る山口県。その中にあって山口市は、
大内文化をはじめ多くの歴史が息づき、文化の薫る街として今に至っています。
周防国の豪族であった大内弘世(おおうちひろよ/24代)は、室町幕府から周防・長門の守護職に任ぜられ、その勢力を確たるものとしました。京に上って、幕府の政治にも関与していた弘世は、京に憧れを抱き、山口盆地が京によく似ていることから、都に模した街づくりをはじめたとされます。1360年頃政庁を山口に移し、以後約200年間、歴代当主も「西の京」として街づくりに励みました。
大内義弘(よしひろ/25代)の時、周防・長門・石見・和泉・紀伊・豊前6ヶ国の守護となり、中央で強大な勢力を得ます。経済においても朝鮮との交易によって富を築き、幕府を脅かす存在となりました。足利義満は大内氏の勢力を恐れ、排除を画策、大内氏と堺で戦うこととなります。優位に戦っていた義弘ですが、幕府軍に街ごと放火され、自刃(応永の乱)。国宝瑠璃光寺五重塔はこの義弘の菩提を弔うため、弟の大内盛見(もりはる/26代)が建立した塔です。
応仁の乱が起こると室町幕府第10代将軍足利義稙(あしかがよしたね)を9年間、大内義興(よしおき/30代)が保護し、義稙を奉じて京に上ります。以後11年間幕政を左右し、この間の京は平和だったといわれています。朝鮮交易に加え、遣明船も独占した大内氏は増々栄え、荒廃した京を逃れ山口に来た公卿や学者、芸能人の数は相当なものでした。山口は京文化の花が移り咲いた感があり、「西の京」といわれるにふさわしい繁栄をしました。
宣教師フランシスコ・サビエルは1549年、布教のため鹿児島に上陸しました。1ヶ月ほど山口に滞在し京に行きますが、応仁の乱で荒廃した京を諦め、再び山口にやって来ます。大内義隆(よしたか/31代)に日本で初めて布教の許可をとり、教えを広め、その後1552年12月9日(西暦12月24日)山口で、サビエルとともに渡来していた宣教師コスメ・デ・トルレスらが日本人信徒を招いて降誕祭のミサを行ったのが日本でのクリスマスのはじまりとされています。
長州藩主毛利敬親(もうりたかちか)は1863年4月に藩庁を萩城より山口に移転させます。1864年1月には山口城の建設に着手しますが、江戸幕府軍に敗れ、山口城を破却して萩城に帰ります。しかし高杉晋作らが藩権力を奪取すると1865年2月、再び山口に移り藩庁を再建。以後山口は政治・文化の中核として復活します。


弘世は、京から姫を嫁に迎えましたが、姫が都を懐かしみ寂しがるので、その憂情を慰めるために京から人形師を呼び寄せ、屋敷中を人形で飾ったそうです。そんなロマンチックな伝説が男女一対の珍しい漆塗り人形である、大内人形を生んだといわれています。

明治40年(1907年)山口市湯田温泉で生まれました。ダダイズムの影響を受けて本格的に詩作をはじめます。『山羊の歌』『在りし日の歌』などの詩集を発表。今も多くの人々に愛されています。享年30歳。
明治15年(1882年)山口県防府市で生まれました。西日本を中心に行乞の旅を続けながら句作を行い、「現代の芭蕉」と呼ばれています。昭和7年(1932年)から13年まで小郡下郷矢足の「其中庵」を住まいとしました。
明治4年(1871年)千葉県銚子市で生まれましたが、山口裁判所在勤を申し付けられた父に伴って山口に移住しました。明治20年(1887年)に上京。詩、短編小説等を発表。山口ゆかりの作品も多く含まれています。
明治30年(1897年)山口市仁保で生まれました。昭和7年(1932年)第2作品集『途上』を出版し、さらなる活躍が期待されましたが、翌年35歳で死去。その作品は「私小説の極北」と評されています。









